「言ったはずのことが、伝わっていなかった」——受入れの現場で繰り返し起きる問題です。手順を説明し、本人も頷いていた。それなのに、実際の作業が違っていた。
こうしたとき、原因は本人の日本語力に置かれがちです。しかし、そこに原因を置くと、企業側に打てる手がなくなります。日本語力は短期間では変わらないからです。
そして多くの現場では、この問題に対して現実的な解決策がすでに取られています。日本語がある程度できるフィリピン人従業員が、日本人従業員と他のフィリピン人従業員の間に立ち、通訳役を担っているという体制です。
これは、その場をしのぐ方法としては極めて有効です。しかし、長く続けると別の問題が育ちます。この記事では、その構造と会社が設計できる範囲を整理します。
結論:課題は語学力ではなく、伝達経路の設計
企業が設計できるのは、次の2つです。
一人に依存しない伝達手段を用意すること。そして、通訳を介さない相談経路を、必ず一つ確保しておくこと。
本人の日本語力を上げることも大切ですが、時間のかかる取り組みです。一方、伝達経路の設計は今日から変えられます。
「伝わらない」は語学力の問題に見えて、多くの場合は経路の設計の問題です。
「英語ができるから大丈夫」は、現場では機能しない
採用の段階でよく聞かれるのが、「フィリピン人は英語ができるから意思疎通は問題ない」という見立てです。
しかし、現場ではこの前提が成り立ちません。受入れ企業の側に、英語で業務のやり取りができる人がほとんどいないためです。本人が英語を話せても、それを受け取る相手がいなければ、意思疎通の手段にはなりません。
ただし、英語がまったく役に立たないわけではありません。活きるのは口頭ではなく、書面です。
手順書やマニュアルに英語を併記すれば、本人は読んで理解できます。翻訳ツールを使う場合も、日本語から直接ではなく英語を経由したほうが、精度が上がることがあります。つまり「英語ができる」という事実は、会話ではなく、渡す資料の設計にこそ使えます。
通訳役に、何が起きているか
ここが本記事の中心です。日本語ができる一人に伝達を任せる体制は、合理的に見えて、次のような状態を生みます。
本来の業務に、通訳という仕事が乗る
その人には、自分の担当業務があります。そこに伝達の役割が追加されますが、業務として認識されないまま進むことが多く、評価にも手当にも反映されません。作業中に呼ばれて説明に回れば、自分の作業は遅れます。本人が損をしている状態が、見えないまま続きます。
同僚の中に、意図しない序列が生まれる
この点が、最も見落とされています。通訳役は、他のフィリピン人従業員と同じ立場の従業員です。指揮命令の権限はありません。それでも会社の指示を伝える立場に置かれることで、同じ立場の集団の中に、上下のような関係ができてしまいます。
周囲からは「日本語が少しできるだけなのに偉そうだ」と受け取られることがあります。本人が望んで得た立場ではなく、会社が便宜上そう頼んだ結果であるにもかかわらず、摩擦を引き受けるのは本人です。
そして、この関係は職場だけで終わりません。同じ寮で生活していれば、勤務時間が終わってもその立場が続きます。日本人従業員であれば退勤後は離れられますが、共同生活ではそうはいきません。逃げ場のない状態で、日常的に軋轢を抱えることになります。
情報が通訳役経由からしか流れない
会社が把握できるのは、通訳役が伝えた内容だけになります。日本語で言ったことが、どのようなニュアンスで伝わったのか。他の従業員が何を言ったのか。会社には確認する手段がありません。悪意の有無とは無関係に、これは起こります。伝えにくい話は柔らかくなりますし、細かい部分は省略されます。そして省略されたことは、省略されたと分かりません。
通訳役自身に不満があるとき、経路が塞がる
構造上、最も危険なのがこの点です。その人が待遇や職場に不満を抱えたとき、あるいは会社との関係が悪化したとき、伝達経路そのものが機能しなくなります。しかも会社は、他の従業員から直接それを聞く手段を持っていません。問題が表面化するのは、たいてい何人かがまとめて退職を申し出る場面です。
不在になると、伝達手段が消える
一時帰国、退職、休職。その人がいなくなった瞬間、会社と従業員の間の言葉が途切れます。属人化した仕組みは、必ずどこかで止まります。
役割が、生活面まで広がる
通訳を頼むうちに、いつの間にか寮の相談窓口や、金銭の相談相手になっていることがあります。これは寮の運営で古参の一人に任せきりにしないという論点と、まったく同じ構造の問題です。同じ人に、業務の伝達と生活の管理が同時に集まっていく。気づいたときには、その人抜きでは何も回らない状態になっています。
会社が設計できること
通訳役をなくす必要はありません。依存の度合いを下げ、経路を複線化することが目的です。
① 口頭から、見える形へ
写真、図、実演、手順書。一度作れば繰り返し使えるので、通訳役の負担が構造的に減ります。そして前述のとおり、書面には英語を併記する価値があります。口頭で英語が使えなくても、読む場面では機能します。
② 翻訳ツールは、日本人側が使う
本人任せにせず、指示を出す側が翻訳して渡す。これだけで、通訳役を経由する場面が減ります。完璧な訳でなくても、書面が残ること自体に意味があります。
③ 通訳を業務として認識する
その人が何をどれだけ担っているのかを、まず把握してください。業務として発生しているなら、それは業務です。認識したうえで、負担に見合う扱いを検討します。
あわせて、頼んでいるのは会社であることを、他の従業員にも明確に伝えてください。本人が自発的に仕切っているように見える状態を放置すると、摩擦がその人個人に向かいます。会社が依頼した役割だと分かっていれば、受け取られ方は変わります。
④ 通訳を介さない相談経路を、必ず一つ作る
これが最も重要です。支援担当者による定期面談、母語対応の相談窓口、書面での申告。形式は問いませんが、通訳役を経由しない経路が一つもない状態は避けてください。その経路がなければ、通訳役自身に関する問題はいっさい会社に届きません。
⑤ 復唱してもらう
「わかりましたか」ではなく「何をするか説明してみてください」と聞きます。確認の形を変えるだけで、通じていない箇所が見えます。
「通じていない」ことに気づく手がかり
「はい」「わかりました」が、必ずしも理解を意味しない場合があります。言語を学んでいる途中の人には広く見られることで、「聞こえました」という意味で使われることがあります。
質問がまったく出てこない場合も手がかりです。理解していれば疑問が生じるのが自然です。何が分からないのかが分からない状態である可能性があります。
作業の入り口だけが正しく、途中から違ってくるのも典型です。最初の説明は理解できたが、その先は推測で進めている状況です。
日本語学習をどう支援するか
会社が直接教える必要はありません。最も効果のある支援は、時間の確保です。
学習の意思があっても、残業や交代勤務で時間が取れなければ続きません。学習に充てられる時間があるかどうかは、会社の勤務設計で決まる部分があります。
就業時間内に、学習の時間を置く
実際に行われている例として、二週間に一度、日本語講師を招いて、就業時間内に1時間程度の勉強会を実施している企業があります。
頻度としては決して多くありません。それでも継続する理由は、就業時間内に置いている点にあります。勤務後や休日に設定すると、疲労や生活の都合で参加率が下がり、やがて自然消滅します。
そして、会社が業務時間を割いているという事実そのものが、日本語の習得を業務の一部として位置づけるメッセージになります。本人の自助努力に任せている状態とは、伝わり方が根本的に違います。
資格取得を、処遇にどう結びつけるか
日本語能力試験(JLPT)の合格に対して報奨金を支給する企業や、昇給の条件として位置づけている企業もあります。
ただし、この二つは似ているようで、性質が逆です。
報奨金は、合格した人を評価する仕組みです。合格しなかった人が不利になるわけではありません。一方、昇給の条件とする場合は、合格しない限り処遇が据え置かれることになります。
本記事で述べてきたとおり、技能と語学は別のものです。現場の技能が高くても、語学の習得が進まない人はいます。条件として設計するのであれば、その人の評価が語学だけで決まってしまわないかを確認しておく価値があります。
そして、通訳役に頼りきりの状態は、他の従業員が日本語を使う機会そのものを奪っています。簡単なやり取りは直接行う、という運用が、結果的に全体の日本語力を底上げします。
よくある間違い
原因を本人の語学力だけに置く
そこに置くと、企業側に打てる手がなくなります。
「英語ができるから大丈夫」と考える
受け取る側に英語ができる人がいなければ、手段になりません。
通訳役を業務として認識しない
負担が見えないまま、特定の人に集中します。
通訳役から聞いた話を、全体の状況だと考える
会社が把握しているのは、その人が伝えた範囲です。
通訳役を介さない経路を用意していない
通訳役自身に関する問題が、会社に届かなくなります。
日本語ができないことを、能力の問題として扱う
技能と語学は別のものです。混同すると、本人の評価そのものを誤ります。
まとめ
「日本語が通じない」という状況に対して、日本語ができる一人を介して伝える体制は、その場では確実に機能します。問題は、それが長く続いたときです。
負担が一人に集中し、同僚との間に意図しない序列が生まれ、情報がその人を経由してしか流れなくなる。そしてその人が不在になれば、言葉が途切れる。さらに通訳役自身が困ったとき、それを会社に伝える手段がありません。
会社が設計できるのは、見える形で渡すこと、翻訳を指示する側が担うこと、通訳を業務として認識してあげること、そして通訳役を介さない経路を一つ確保することです。
どれも語学力とは無関係に、今日から始められることです。
定着に関わる要因の全体像はフィリピン人材が定着しない本当の理由を、相談経路が塞がった結果として起きる場面については「辞めたい」と言われたらをあわせてご確認ください。
本記事は情報提供を目的としたものであり、個別の労務判断を保証するものではありません。在留資格に関する日本語能力の要件は制度により異なり、変更されることがあります。実際の対応にあたっては、各機関の最新情報をご確認ください。
